
2008年に、おばあちゃんが認知症になった。
もう少し詳しく表現すると「なった」というより、そう「判定」されたと云うべきかもしれないが・・・。
その時始めて、自分の中の知識項目の中に「認知症」と銘記されたわけだが。
恥ずかしながら「認知症」が何なのかさえわかっていなかった。
頭の中の拙い知識で「ボケ・痴呆」=「認知症」という程度の認識だ。
今思うと、異変はかなり多くあったと思う。
おばあちゃんと一緒に買物に行く道すがら、おばあちゃんの歩き方が右に逸れていってなかなか真っ直ぐに歩けないとか...味覚というか料理の段取りや、味付けが変わったり出来なくなったりとか...孫の名前を間違ったり、友人の家への道順がわからなくなったりetc...
たくさんあった。
けれど、日常が変わるのを無意識に恐れ、無視してきたんだと今では思う。
親しい程、今まで知っていた人が未知の様子へと...変わっていくのを見るのは辛いと思う。
...でも、初期で病院に行かせてあげられたならば・・・
「きっと、今よりもずっと状態は良かったのでは?」
という思いが、強く心にへばり付いて剥がれない。
2011年9月現在
僕は介護の資格を取り、おばあちゃんを自分で面倒を見るための「受け皿候補」としての施設に立ち上げから関わり、平成23年の2月~8月まで働いた。
しかし、その「施設」の方向性と僕自身の「思い」が180度ずれてしまった事と、経営が傾いた事で6・7月まで何とか午前中は働く事ができていたものの(フルタイム働けなくなったのも方向性の違いが大きい)経営側に呼び出され9月には、週に1・2度午前中の出勤にするという通達があった。実質解雇通知に等しい。
しかし「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉にもある様に
その翌日に、以前勤めていた職場の上司から、臨時的に働けないか?とお誘いの
電話があった。
その職場は、直接的にではないが介護に関する様々な制度や仕組みが、改めて学ぶことが出来るというメリットもあったので、すぐにその話を承諾する事に決めた。
この話が来る前まで「立ち上げから関わったのだから」という思いも少なからずある。だから、この電話が無ければこの施設と落ちる所まで落ちていたかもしれない。
・・・ちょうど潮時。
去るタイミングを天が、電話のベルと共に上司を介して伝えてくれたのだと感じる。
また、上司の人間性の豊かさが、この時の僕には心地よくて。
とても言葉では言い表せない気持で、いまだにそれを思い出すと。じんわりと心の中が暖かくなる。
話は、施設の開所の数週間前に遡る。
とあるケアマネージャーの大規模集会に参加させていただいた時に
抱負として、何百名という介護支援専門員・管理者等の皆さんの前に立ち
「僕はその人が心のそこから豊かになれるようなケア・支援をしたいのです」
と始めて言葉にして伝えた。
その通りに、僕のケアをする側としてのプロとしての歩みが始まった。
その思いと共にいくつかの僕なりの理念がある。それは
僕の「おばあちゃんに何かしてあげたい」という思い。
そして「人に何かしてあげたい」と自身の心に固く誓い持っている漠然とした気持ち、それらを社会に形として成す為の鍵として、
「マザーテレサの精神」
「良心の発露を双方に促す」
「人間の本質的な心が双方に豊かになるケア」
という3要素を常に念頭におき行動してきた。
・・・当初の施設の「理念」である「重度の方に対する真心の世話」に共感して
施設の職員にして頂いたのだ。が、その理念も180度覆る。
経営側の認識として、従来の「ケア」とされて来た「介護」は身体介護が主で、確かに心のケア的な部分にも触りはするが、専門性やそれらを重視するという認識は無かったし、それによる弊害として初期のスタッフの離脱がある。
とてももったいない出来事の連続だった。
認知症専門に行っている所であれば喉から手が出る程欲しい人材が揃っていたのだが、その人材らも9月までには、僕も含め8割方が一人、また一人と。辞めざるを得ない状況下に置かれ、去って行った...
たぶんこの施設は、立地的に恵まれてはいるので潰れはしないだろう。
入れ替わり立ち代り、利用者もはいりはするだろう。
...しかし。
表に見える事柄より、その利用者の「心の状態。」はどうなってしまうのか...とても心配。
動物的な本能に働きかけて性欲を刺激したり
利用者双方の思いを巧みに操り、双方の憎しみや嫌悪感、負の感情を煽ったり
本人の目の前で本人の「失敗」「至らなさ」を第三者に話す。『言葉』にする…。
そんな施設の状態を改善していこうという思いがあり、そして実行していくのだが。しかし、力足らずで精神的にも経済的にもギリギリの所に立たされ...結果的にそこを離れることになったわけではあるのだが。
僕は、この施設にいるとき。
なんとか、環境やその人の変化によって。
奥に押し込められ忘れられた「思い」、「感情」を
人間の良心。本来の輝きを伴って、「可能性(希望)」を、掘り起こし。
一緒にそれらに触れ。記憶でも想いでも。形の有無でもなく。
自分らの心がその過程によって満たされていく。
最後には、その人が家族にも自分自身にも皆にも、そして天に向かって
「...ありがとうね」と
言葉にしなくても。
そんな、気持ちで逝くことができたら、
そんな気持ちを持てることが出来たら、どんなに素晴らしい事か。と考えていて
今でも、その思いは変わらない。
生きる意義と
死ぬ事の意義はどちらも同じだとおもう。
死ぬ時に発することができた、「本当の心」
「ありがとう」という感謝の言葉なり、
真心のある状態というのは
生きる、とか。
死ぬ、とか
もう、そんな事を超越しているのだと思う。
『そんな気持ちで逝ってほしい』
そう考えて。
いかに「この方」の奥深い所にある精神に共感し、自他の区別が無くなる様な精神感応を実践し、心と心を近づけて本質的な部分を感じていけるのか。
そして、それに伴って身体を支援していけるのか。
流れ作業になってしまったこの施設で
『そんな試みでケアしていくので、当然、初めはベルトコンベア的な介助とは足並みは揃うはずもない』と多くの人は「思う」。
しかし、
「その人の流れでやるのか」
「施設の流れでやるのか」
どちらもジレンマが伴う事柄だけれども。
どちらも改善点はあるわけで、そして双方工夫も出来うることは可能である事も知っている。
その人の流れをより認識してオーダーメイド性を重視し、身体のお世話を相対的に行っていけるし、少人数型で人材の質の向上(心のレベルの底上げ)が求められる。
施設の流れを重視する中でも、流れに当てはめるなかで、時間毎に行われる諸々の支援に付随していくであろう、関わる側の精神性、心の篭り方という物も問われるし、最終的には人材の精神性の向上がキーパーソンとなっていく。
どちらも「人」がキーポイントだ。
だから。
そのどちらかの方向性しか、認識できない人というのは、「人」の可能性
「人のあり方」に拙い関心しか持っていないといえるかもしれない。
だから...ひとつの面、ひとつの方向性でしか捉えられない見方であれば。
施設にいた時の僕は、阿呆にみえたかもしれないし、介護者失格とレッテルをはられたかもしれない。
けれども、その人の排泄時間のタイミングを図ったり、申し送りの必要性、1日の段取りの必要性、記録、利用者の心身状態の情報の共有話し合いの必要性を訴えたり、利用者や介護者全員の意思の動きを捉え。
レクや機能訓練補助、食事介助を行い。それらを、認知心理学の応用で調整していき、個人のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)やICF。バリデーション、エンパワーメント、地域との関連性や人生背景をれらを総合的に考え。
いかに良く『この方』が最後を迎える事が出来得るのかも重要であり、その『可能性の追求』の大切さを説明しても・・・
なかなか『相手側に理解してもらえない』ということで。落ち込んだ...。
しかし。その「伝わらなさ」というのも僕の改善点であり『言葉を噛み砕く』という作業が稚拙ゆえの自身の『課題』なのだが・・・。
こうして、自身のプレゼン能力の低さと、周囲の認識をイノベートすることに失敗し、挫折する中で教訓を得た。
「自分が正しい」と強く思う中では
「自分の正しさ」程あてにならないものは無いと学んだ瞬間だ。
「自分が正しい」という強い思いは諸刃の剣で
「常識的な意見・見解」も自分の「正しさ」で見えなくなってしまう。
(僕自身もそういう面があるので、今回の事はとても「学び」が多く、結果的に精神面でもかなり鍛えられた。)
しかし、自分の「正しさの全否定」ではなく
『自分の中の正しさ』を持ちながら竹の様に柔軟な心身で人の意見を、心を平静にして聴き、その中で偏り無く中間的な思考で判断し、「はたして物事の真実・真理はどうであろうと」本当に心を静めて捉えていかないと、「私的な見解」悪く言えば、その時々の感情に流されて、ほんとの内容が見えなくなってしまう。
それは、認知症と対面する時も同じだ。と僕は感じる。
ケアする側の基本姿勢かもしれない。
そんなこんなで。
一つ。今回の仕事で得られた大きな収穫は。
『自分で施設を立ち上げるべきだ』
という『思い』がヒートアップした点だ。
あまい考えという人もいるだろう。もう少し経験を積みなさいという人もいるだろう。けど、今が一番のチャンス。
ベストの『時期』なんだと僕は思う。
『介護』に関する問題は
はっきり言えば『介護』のみの問題ではないと感じる。
『介護』はあくまで本筋から派生した分岐の末端的なもので
時代に応じた『一形態』でしかない。
末端に生じる問題を、末端を治した(直した)所で根元が腐っていたら
あまり効果も薄いし、下手すれば効果がないかもしれない。
『介護』という認識を『社会全体』『個人』『精神』『倫理』『宗教』『テクノロジー』
あらゆる、観点、認識を用いる『ジェロントロジー(老齢学)』的な思考性にシフトし『介護』という認識を超える必要性がある。
『全から一に、一から全に』
全体が個体としての自身に繋がっている認識と
自身が全体に繋がっている認識をもちあわせ、あらゆる可能性(希望)から
介護に限らず、様々な社会の課題に取り組む中で結果的に、介護の問題も解消していく流れが作られると僕は信じている。
そんな中、
『根っこの部分をどうにかしないと!?』
という思いが心に浮上してくるわけだが。
それを掘り下げて考えると
『根っこ(ねたて)』は人の認識作用の根幹。
『人の意識』の事だと僕は、考察する。
このブログの顔になもなっている
『JINON_じのーんねたてプロジェクト』
とは。
まさに僕らが暮らす宜野湾(じのーん)から社会全体に
人々の『ねたて(根元)』をイノベート(変革)し、本来の道徳性の備わった人間性の確立、福祉の充実、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)を追求する
『団体の名称』(NPO申請にむけて奮闘中)で、ジェロントロジー的な考えを基盤に、介護を含め様々な可能性を掘り起こすために組織する次第だ。
と、そういう、過程があり。いま現在・・・。
会社立ち上げの為の書類作成を行っている。
話は長くなったが、2008年の始まりを経て
3年間の期間を認知症に対する、僕個人の心の容量を広げていく「受容」と
介護や諸々の知識を得るための勉強に使った。
当初の「おばあちゃんのため」という強い意志は変わらない。
介護に対する不信感から介護に対する疑問をもち、介護を学校で学び、資格をとり
さらにこの事から社会全体の問題を認識するようにもなった。
『誰かの為』が、『自分の心を暖めてくれる』と実感をもって認識できる様になった今では、
『おばあちゃんと困窮した多くの皆のため、そして自分の救いの為』
と云う考えのもと。
オルタナティブ(もう一つの社会の追及)社会の変換
社会起業家として介護サービスの新たな可能性の創設と
社会の新たな可能性を追求し形にしていく事を、僕は誓う。
まずは、法人登記。
そして、ばあちゃんの笑顔を取り戻し、新たな『介護の可能性(後ほど記述していこうと思う)』を実践していくためにも、「受け皿」となる介護サービス施設の創設が急務だ。
もう少し詳しく表現すると「なった」というより、そう「判定」されたと云うべきかもしれないが・・・。
その時始めて、自分の中の知識項目の中に「認知症」と銘記されたわけだが。
恥ずかしながら「認知症」が何なのかさえわかっていなかった。
頭の中の拙い知識で「ボケ・痴呆」=「認知症」という程度の認識だ。
今思うと、異変はかなり多くあったと思う。
おばあちゃんと一緒に買物に行く道すがら、おばあちゃんの歩き方が右に逸れていってなかなか真っ直ぐに歩けないとか...味覚というか料理の段取りや、味付けが変わったり出来なくなったりとか...孫の名前を間違ったり、友人の家への道順がわからなくなったりetc...
たくさんあった。
けれど、日常が変わるのを無意識に恐れ、無視してきたんだと今では思う。
親しい程、今まで知っていた人が未知の様子へと...変わっていくのを見るのは辛いと思う。
...でも、初期で病院に行かせてあげられたならば・・・
「きっと、今よりもずっと状態は良かったのでは?」
という思いが、強く心にへばり付いて剥がれない。
2011年9月現在
僕は介護の資格を取り、おばあちゃんを自分で面倒を見るための「受け皿候補」としての施設に立ち上げから関わり、平成23年の2月~8月まで働いた。
しかし、その「施設」の方向性と僕自身の「思い」が180度ずれてしまった事と、経営が傾いた事で6・7月まで何とか午前中は働く事ができていたものの(フルタイム働けなくなったのも方向性の違いが大きい)経営側に呼び出され9月には、週に1・2度午前中の出勤にするという通達があった。実質解雇通知に等しい。
しかし「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉にもある様に
その翌日に、以前勤めていた職場の上司から、臨時的に働けないか?とお誘いの
電話があった。
その職場は、直接的にではないが介護に関する様々な制度や仕組みが、改めて学ぶことが出来るというメリットもあったので、すぐにその話を承諾する事に決めた。
この話が来る前まで「立ち上げから関わったのだから」という思いも少なからずある。だから、この電話が無ければこの施設と落ちる所まで落ちていたかもしれない。
・・・ちょうど潮時。
去るタイミングを天が、電話のベルと共に上司を介して伝えてくれたのだと感じる。
また、上司の人間性の豊かさが、この時の僕には心地よくて。
とても言葉では言い表せない気持で、いまだにそれを思い出すと。じんわりと心の中が暖かくなる。
話は、施設の開所の数週間前に遡る。
とあるケアマネージャーの大規模集会に参加させていただいた時に
抱負として、何百名という介護支援専門員・管理者等の皆さんの前に立ち
「僕はその人が心のそこから豊かになれるようなケア・支援をしたいのです」
と始めて言葉にして伝えた。
その通りに、僕のケアをする側としてのプロとしての歩みが始まった。
その思いと共にいくつかの僕なりの理念がある。それは
僕の「おばあちゃんに何かしてあげたい」という思い。
そして「人に何かしてあげたい」と自身の心に固く誓い持っている漠然とした気持ち、それらを社会に形として成す為の鍵として、
「マザーテレサの精神」
「良心の発露を双方に促す」
「人間の本質的な心が双方に豊かになるケア」
という3要素を常に念頭におき行動してきた。
・・・当初の施設の「理念」である「重度の方に対する真心の世話」に共感して
施設の職員にして頂いたのだ。が、その理念も180度覆る。
経営側の認識として、従来の「ケア」とされて来た「介護」は身体介護が主で、確かに心のケア的な部分にも触りはするが、専門性やそれらを重視するという認識は無かったし、それによる弊害として初期のスタッフの離脱がある。
とてももったいない出来事の連続だった。
認知症専門に行っている所であれば喉から手が出る程欲しい人材が揃っていたのだが、その人材らも9月までには、僕も含め8割方が一人、また一人と。辞めざるを得ない状況下に置かれ、去って行った...
たぶんこの施設は、立地的に恵まれてはいるので潰れはしないだろう。
入れ替わり立ち代り、利用者もはいりはするだろう。
...しかし。
表に見える事柄より、その利用者の「心の状態。」はどうなってしまうのか...とても心配。
動物的な本能に働きかけて性欲を刺激したり
利用者双方の思いを巧みに操り、双方の憎しみや嫌悪感、負の感情を煽ったり
本人の目の前で本人の「失敗」「至らなさ」を第三者に話す。『言葉』にする…。
そんな施設の状態を改善していこうという思いがあり、そして実行していくのだが。しかし、力足らずで精神的にも経済的にもギリギリの所に立たされ...結果的にそこを離れることになったわけではあるのだが。
僕は、この施設にいるとき。
なんとか、環境やその人の変化によって。
奥に押し込められ忘れられた「思い」、「感情」を
人間の良心。本来の輝きを伴って、「可能性(希望)」を、掘り起こし。
一緒にそれらに触れ。記憶でも想いでも。形の有無でもなく。
自分らの心がその過程によって満たされていく。
最後には、その人が家族にも自分自身にも皆にも、そして天に向かって
「...ありがとうね」と
言葉にしなくても。
そんな、気持ちで逝くことができたら、
そんな気持ちを持てることが出来たら、どんなに素晴らしい事か。と考えていて
今でも、その思いは変わらない。
生きる意義と
死ぬ事の意義はどちらも同じだとおもう。
死ぬ時に発することができた、「本当の心」
「ありがとう」という感謝の言葉なり、
真心のある状態というのは
生きる、とか。
死ぬ、とか
もう、そんな事を超越しているのだと思う。
『そんな気持ちで逝ってほしい』
そう考えて。
いかに「この方」の奥深い所にある精神に共感し、自他の区別が無くなる様な精神感応を実践し、心と心を近づけて本質的な部分を感じていけるのか。
そして、それに伴って身体を支援していけるのか。
流れ作業になってしまったこの施設で
『そんな試みでケアしていくので、当然、初めはベルトコンベア的な介助とは足並みは揃うはずもない』と多くの人は「思う」。
しかし、
「その人の流れでやるのか」
「施設の流れでやるのか」
どちらもジレンマが伴う事柄だけれども。
どちらも改善点はあるわけで、そして双方工夫も出来うることは可能である事も知っている。
その人の流れをより認識してオーダーメイド性を重視し、身体のお世話を相対的に行っていけるし、少人数型で人材の質の向上(心のレベルの底上げ)が求められる。
施設の流れを重視する中でも、流れに当てはめるなかで、時間毎に行われる諸々の支援に付随していくであろう、関わる側の精神性、心の篭り方という物も問われるし、最終的には人材の精神性の向上がキーパーソンとなっていく。
どちらも「人」がキーポイントだ。
だから。
そのどちらかの方向性しか、認識できない人というのは、「人」の可能性
「人のあり方」に拙い関心しか持っていないといえるかもしれない。
だから...ひとつの面、ひとつの方向性でしか捉えられない見方であれば。
施設にいた時の僕は、阿呆にみえたかもしれないし、介護者失格とレッテルをはられたかもしれない。
けれども、その人の排泄時間のタイミングを図ったり、申し送りの必要性、1日の段取りの必要性、記録、利用者の心身状態の情報の共有話し合いの必要性を訴えたり、利用者や介護者全員の意思の動きを捉え。
レクや機能訓練補助、食事介助を行い。それらを、認知心理学の応用で調整していき、個人のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)やICF。バリデーション、エンパワーメント、地域との関連性や人生背景をれらを総合的に考え。
いかに良く『この方』が最後を迎える事が出来得るのかも重要であり、その『可能性の追求』の大切さを説明しても・・・
なかなか『相手側に理解してもらえない』ということで。落ち込んだ...。
しかし。その「伝わらなさ」というのも僕の改善点であり『言葉を噛み砕く』という作業が稚拙ゆえの自身の『課題』なのだが・・・。
こうして、自身のプレゼン能力の低さと、周囲の認識をイノベートすることに失敗し、挫折する中で教訓を得た。
「自分が正しい」と強く思う中では
「自分の正しさ」程あてにならないものは無いと学んだ瞬間だ。
「自分が正しい」という強い思いは諸刃の剣で
「常識的な意見・見解」も自分の「正しさ」で見えなくなってしまう。
(僕自身もそういう面があるので、今回の事はとても「学び」が多く、結果的に精神面でもかなり鍛えられた。)
しかし、自分の「正しさの全否定」ではなく
『自分の中の正しさ』を持ちながら竹の様に柔軟な心身で人の意見を、心を平静にして聴き、その中で偏り無く中間的な思考で判断し、「はたして物事の真実・真理はどうであろうと」本当に心を静めて捉えていかないと、「私的な見解」悪く言えば、その時々の感情に流されて、ほんとの内容が見えなくなってしまう。
それは、認知症と対面する時も同じだ。と僕は感じる。
ケアする側の基本姿勢かもしれない。
そんなこんなで。
一つ。今回の仕事で得られた大きな収穫は。
『自分で施設を立ち上げるべきだ』
という『思い』がヒートアップした点だ。
あまい考えという人もいるだろう。もう少し経験を積みなさいという人もいるだろう。けど、今が一番のチャンス。
ベストの『時期』なんだと僕は思う。
『介護』に関する問題は
はっきり言えば『介護』のみの問題ではないと感じる。
『介護』はあくまで本筋から派生した分岐の末端的なもので
時代に応じた『一形態』でしかない。
末端に生じる問題を、末端を治した(直した)所で根元が腐っていたら
あまり効果も薄いし、下手すれば効果がないかもしれない。
『介護』という認識を『社会全体』『個人』『精神』『倫理』『宗教』『テクノロジー』
あらゆる、観点、認識を用いる『ジェロントロジー(老齢学)』的な思考性にシフトし『介護』という認識を超える必要性がある。
『全から一に、一から全に』
全体が個体としての自身に繋がっている認識と
自身が全体に繋がっている認識をもちあわせ、あらゆる可能性(希望)から
介護に限らず、様々な社会の課題に取り組む中で結果的に、介護の問題も解消していく流れが作られると僕は信じている。
そんな中、
『根っこの部分をどうにかしないと!?』
という思いが心に浮上してくるわけだが。
それを掘り下げて考えると
『根っこ(ねたて)』は人の認識作用の根幹。
『人の意識』の事だと僕は、考察する。
このブログの顔になもなっている
『JINON_じのーんねたてプロジェクト』
とは。
まさに僕らが暮らす宜野湾(じのーん)から社会全体に
人々の『ねたて(根元)』をイノベート(変革)し、本来の道徳性の備わった人間性の確立、福祉の充実、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)を追求する
『団体の名称』(NPO申請にむけて奮闘中)で、ジェロントロジー的な考えを基盤に、介護を含め様々な可能性を掘り起こすために組織する次第だ。
と、そういう、過程があり。いま現在・・・。
会社立ち上げの為の書類作成を行っている。
話は長くなったが、2008年の始まりを経て
3年間の期間を認知症に対する、僕個人の心の容量を広げていく「受容」と
介護や諸々の知識を得るための勉強に使った。
当初の「おばあちゃんのため」という強い意志は変わらない。
介護に対する不信感から介護に対する疑問をもち、介護を学校で学び、資格をとり
さらにこの事から社会全体の問題を認識するようにもなった。
『誰かの為』が、『自分の心を暖めてくれる』と実感をもって認識できる様になった今では、
『おばあちゃんと困窮した多くの皆のため、そして自分の救いの為』
と云う考えのもと。
オルタナティブ(もう一つの社会の追及)社会の変換
社会起業家として介護サービスの新たな可能性の創設と
社会の新たな可能性を追求し形にしていく事を、僕は誓う。
まずは、法人登記。
そして、ばあちゃんの笑顔を取り戻し、新たな『介護の可能性(後ほど記述していこうと思う)』を実践していくためにも、「受け皿」となる介護サービス施設の創設が急務だ。